083 宇治拾遺物語(巻4、065)


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083 宇治拾遺物語 巻四 (65)

智海法印、癩人法談の事


 
 
 これも今は昔、
 智海法印が、まだ有職の地位にあった頃。

 法印が清水寺へ百日参詣し、夜更けになって寺から戻る時、
 橋の上に、
「唯円教意 逆即是順 自余三教 逆順定故……」
 と、経文を唱える声を聞いた。

 尊いことだ、いかなる人が唱えているのであろうと、
 近寄ってみると、それは、醜い白癩人であった。

 それでも傍らに座り、法文のことを問うと、
 智海が遠く及ばぬほどに説いてくれる。
 京都、奈良の二都にも、これほどの学者は無いと感心して、
「どちらにお住いですか」
 と問うと、
「この坂にいるばかりです」
 と答えた。

 後々、智海法印が幾度か訪ねようとしたものの、結局、見つけられなかった。
 それで法印は、あれは仏様が衆生を救うために人の姿となった、
 化人(けにん)であったのかもしれないと思ったという。




原文
智海法印癩人法談の事

こ れも今は昔、智海法印有職(うしき)の時、清水寺へ百日参りて、夜更けて下向しけるに、橋の上に、「唯円教意、逆即是順、自余三教、逆順定故」といふ文を誦する声あり。貴き事かな、いかなる人の誦するならんと思ひて、近う寄りて見れば、白癩人なり。傍に居て、法文の事をいふに、智海ほとほといひ まはされけり。南北二京に、これ程の学生あらじものをと思ひて、「いづれの所にあるぞ」と問ひければ、「この坂に候なり」とい ひけり。後にたびたび尋ねけれど、尋ねあはずしてやみにけり。もし化人(けにん)にやありけんと思ひけり。



(渚の独り言)

宇治拾遺らしいお話。

智海法印:
ちかいほういん。
延暦寺の僧。詳伝未詳。僧綱補任残欠本に、元暦二年(1185)少僧都などと見えるのはこの人か。
と出ます。
微妙に、その80年くらい後(1260年頃)に、天台僧で、日蓮と問答した結果、日蓮宗に改めて日源と名を改めた――という人も検索に引っかかります。

有職:
うしき。僧職で、已講(いこう)・内供(ないぐ)・阿闍梨(あじゃり)の三つの総称。僧綱(そうごう)に次ぐ地位――と出るので、「そこそこ偉いお坊さん」ですね。

唯円教意 逆即是順 自余三教 逆順定故:
ゆいえんけうい、ぎやくそくぜじゆん、じよさんげう、ぎやくじゆんぢやうこ。
検索したら、法華文句記卷第八之一、というところに登場しているようです。
「唯円教の意は逆即是順なり、自余の三教は逆順定まるが故に」という感じで、日本では、日蓮宗の教え(上人の手紙)に出てくるようです。
「逆の事柄を順当なものへと転ずることができるのは、偏えに法華円教の力用と功徳によるものであって、他の蔵・通・別など、方便の三教の及ぶところではない」とのこと。

ちなみに、検索してみました――仏教の蔵・通・別・円という四つの教えについて。
「蔵」は三蔵教。いわゆる小乗。世界には不変の存在である構成要素(法)からなっており、そのような世界のあり方を分析することで煩悩を克服し、この世界から離れることが解脱であると説く。
「通」は、声聞・縁覚・菩薩に共通する教えという意味で、万物は空であると説くもの。
「別」は、菩薩のためにある教えのこと。利他行。
最後は「円」(法華円教)。煩悩はそのままで悟りであり、生死もそのままで涅槃であることを説く。ここでは否定されるものは何も無く、苦として捨て去るべき生死も煩悩もないので、究極の教えだと言われている……そうです。

白癩人
びゃくらいにん。白癩というのは、膚に白い斑点が出てしまう、ハンセン病(癩病)のこと。
今の時代に「癩」というと差別だとして言葉狩りに遭いますが、少なくともこの時代には、前世に大罪を犯したゆえに癩を煩うのだ、と認識されていた模様です(というわけで、訳文にはあえて「醜い」を追加してます)。
ということで、前世に大きな罪を犯した自分だけれど、順逆すら超越してくれる法華経の功徳で、助かることができる――という、最前の経文につながって行きます。

化人:
けにん。仏や菩薩が人々のため、変身している仮の姿。



See You Again  by-nagisa

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