七夜···百鬼夜行


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百鬼夜行~巻之弐 雨···酒吞童子



酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国と丹後国の境にある大江山、または山城国と丹波国の境にある大枝(老の坂)(共に京都府内)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていたという。伝承では酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された。東京国立博物館が所蔵する太刀「童子切」は酒呑童子を退治した伝承を持ち、国宝に指定され天下五剣にも選定されている。また源氏所縁の兵庫県川西市の多田神社が所蔵する安綱銘を持つ太刀「鬼切丸」も酒呑童子を退治した伝承を持っている。



『大江山絵巻(絵詞)』

—逸翁美術館所蔵


一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた(あるいは正歴元年(990年)に源頼光に勅宣を出した)。頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼む。酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をする。なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて以来、そこには居られなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなど身の上話を語った。頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」(神便鬼毒酒)という毒酒を振る舞い、笈に背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて首をはねた。生首はなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた。一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院の宝蔵に納められた。


御伽草子版


京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、討伐に向かった。

この稿本では、武者たちみずから戦術を練り、山伏姿に扮することも考案し、甲冑・武器(ここではそれらの名前が挙げられる)を笈に隠すことにする。また、一行がまず出会って鬼共の内部事情を教わる洗濯女は、ここでは老婆でなく年齢17、8の女性で、花園の中納言の一人娘である。

一行は山伏(修行僧)と偽って酒呑童子の饗応を受け、童子は自分の身の上を語りだす。ここでは童子は「本国は越後の者」と明かし、比叡山にいたが伝教大師(既出。最澄)によってそこを追われ、この峰(大江山)に住んだが、今度は弘法大師に追放された。しかし空海が高野山で亡くなった後、舞戻ってきた、と語りだす

頼光らは、さらに姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、神よりもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いた。

酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。



酒顚童子《しゆてんどうじ》

原文、壱

大江山《おほえやま》生野《いくの》の道に行《ゆ》き交《か》ふ人の財宝《ざいほう》を掠《かす》め取りて、積《つ》ミ貯《たくハ》ふる事、山の如し。


原文、弐

むくつけき鬼《おに》の肘《かいな》を枕《まくら》とし、見目好《ミめよ》き女に酌《しやく》取らせ、自《ミづか》ら大盃《おほさかづき》を傾《かた》ぶけて楽《たの》しめり。


原文、参

然《さ》れど、童髪《わらハがミ》に緋《ひ》の袴《はかま》着たるこそ、優しき鬼《おに》の心なれ。


原文、肆

末世《まつセ》に及んで、白衣《びやくゑ》の化物《ばけもの》出《いづ》ると、聖教《セうげう》にも侍るをや。




酒顚童子《しゅてんどうじ》

現代語訳、壱

酒顚童子は、大江山を越えて、生野から丹後に向かう道を、行き来する人の金品を奪い取って、山のように積んで貯えていました。


現代語訳、弐

恐ろしい鬼の腕を枕にし、美しい女に酌《しゃく》をさせ、酒顚童子は大盃で酒を飲んで楽しみました。


現代語訳、参

しかし、子供の髪型をして、緋色《ひいろ》の袴《はかま》を着ているのは、この鬼(酒顚童子)が実は優しい心を持っているという事です。


現代語訳、肆

 なにしろ、末世《まっせ》[仏教が衰えた世の中]になると、緋色などではなく、白い着物の化け物が出ると、聖人の教えにもありますから。




百鬼夜行~巻之弐 雨···橋姫(はしひめ)


 『今昔画図続百鬼』


橋姫の社は山城の国宇治橋にあり

橋姫はかほかたちいたりて醜し

故に配偶なし

ひとりやもめなる事をうらみ、人の縁辺を妬み給ふと云



橋姫伝説は水神信仰と密接なかかわりがあり、多くの地域に存在している。

その中でも特に有名なのが、この、京都は宇治川の宇治橋で祀られている橋姫である。

物凄い形相で鬼のようだが、まさにこの橋姫は深い嫉妬によって自ら鬼になることを貴船神社の明神に誓い、このように宇治川に浸かっているのである。

髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪を逆さに頭に載せ、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、宇治川に浸かったのだとか。

しかも、その後この姿で大通りを走るのである。

そうまでして鬼になり、妬む気持ちを晴らしたかったのだから、本当に橋姫の執心というのは恐いものである。

で、この鬼になろうと橋姫が行った儀式が、丑の刻参りのルーツとなっている。



橋姫(はしひめ)は、橋にまつわる日本の伝承に現れる女性・鬼女・女神である。


嫉妬に狂う鬼としての橋姫が現われるのは、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』・『屋代本』や『太平記』などに収録されている「剣巻」で、橋姫の物語の多くの原型となっている。異本であるため、出版されている『平家物語全集』の類の多くには収録されていない。



宇治の橋姫(原文)


嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄〓(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。


宇治の橋姫(現代語訳)

嵯峨天皇の御世(809年-825年)、とある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。明神は哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ」と告げた。

女は都に帰ると、髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪(かなわ、鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、計5つの火を灯した。夜が更けると大和大路を南へ走り、それを見た人はその鬼のような姿を見たショックで倒れて死んでしまった。そのようにして宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。

橋姫は、妬んでいた女、その縁者、相手の男の方の親類、しまいには誰彼構わず、次々と殺した。男を殺す時は女の姿、女を殺す時は男の姿になって殺していった。京中の者が、申の時(15~17時ごろ)を過ぎると家に人を入れることも外出することもなくなった。

そうした頃、源頼光の四天王の1人源綱が一条大宮に遣わされた。夜は(橋姫のせいで)危険なので、名刀「鬚切(ひげきり)」を預かり、馬で向かった。

その帰り道、一条堀川の戻橋を渡る時、女性を見つけた。見たところ20歳余で、肌は雪のように白く、紅梅色の打衣を着て、お経を持って、一人で南へ向かっていた。

綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言って、自分は馬から降りて女を乗せ、堀川東岸を南に向かった。正親町の近くで女が「実は家は都の外なのですが、送って下さらないでしょうか」と頼んだので、綱は「分かりました。お送りします」と答えた。すると女は鬼の姿に変わり、「愛宕山へ行きましょう」と言って綱の髪をつかんで北西へ飛び立った。

綱はあわてず、鬚切で鬼の腕を断ち斬った。綱は北野の社に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕へ飛んでいった。綱が髪をつかんでいた鬼の腕を手に取って見ると、雪のように白かったはずが真っ黒で、銀の針を立てたように白い毛がびっしり生えていた。

鬼の腕を頼光に見せると頼光は大いに驚き、安倍晴明を呼んでどうすればいいか問うた。晴明が「綱は7日間休暇を取って謹慎して下さい。鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言ったので、その通りにさせた。

剣巻では橋姫の腕を斬った「鬚切」はこの事件により「鬼丸(おにまる)」と呼ばれるようになったとされる。綱の羅生門の鬼退治(『酒呑童子』)や多田満仲の戸隠山の鬼退治(『太平記』)などで振るわれた鬼切(おにきり)と同一視されることが多い、鬼と縁が深い名刀である。

橋姫が浸った川は宇治川で、祭られているのは宇治川の宇治橋だが、綱が橋姫と出合ったのは堀川の一条戻り橋である。

歳月の経過は特に描写されていないが、源頼光・源綱・安倍晴明の時代は「嵯峨天皇の御世」の200年近く後である。




ニ夜 ···百鬼夜行~

巻之弐 雨  続巷百物語  参照


59···酒顛童子(しゅてんどうじ)
60···橋姫(はしひめ)



See You Again  by_nagisa

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