087 宇治拾遺物語(巻4、069)
087 宇治拾遺物語 巻四 (69)
慈恵僧正戒壇築かれたる事
これも今は昔、
慈恵僧正は近江の国・浅井郡の人であった。
さて、比叡山に戒壇を築く許しが下りたものの、
人足を揃えることが出来ず、未だ、戒壇を築くことができなかった折のこと。
浅井郡の郡司と、慈恵僧正とは、師匠・檀家の間柄で親しくしていたため、
ある仏事に、慈恵僧正が招かれた。
そして僧膳に提供するため、郡司が大豆を目の前で炒り始めたが、
そこに酢をかけるので、
「何のために酢などをかけるのか」
と問うと、郡司は、
「大豆の暖かな時に酢をかければ、苦みのために皺が出来て箸で挟みやすくなります。
こうしなければ、滑って挟むことができませんよ」
と言う。
けれど僧正は、
「何でそれしきの豆が箸で挟めぬことがあろうか。
わしは、投げつけられた大豆であっても、挟んで食べられるぞ」
と言い張るので、
「どうして、どうして。そんなことは出来ませんよ」
と言い争いになった。
そこで僧正は、
「ではわしが勝てば、他のことではない、戒壇を築いてくれるか」
と言うと、
「おやすい御用です。では――」
と、郡司が炒った大豆を僧正へ投げつけると、
僧正は一間ほどさがったところに座ったまま、
一粒も落とさず箸に挟んでのけたものだから、見る者で驚かぬ者もない。
郡司が、こっそりと柚子の種を取り出し、まぜこぜに投げやっても、
滑りやすいはずなのに、僧正は落しもせず、箸に挟んで留める。
僧正の勝ちであった。
というわけで、郡司は富裕な一族であったから、
人数を揃え、日を置かず、比叡山へ戒壇を建てたのだという。
原文
慈恵僧正戒壇築かれたる事
これも今は昔、慈恵僧正は近江の国淺井群の人なり。叡山の戒壇を人夫かなはざりければ、え築かざりける比、淺井郡司は親しき上に、師壇にて佛事を修する間、此の僧正を請じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて、酢をかけけるを、「何しに酢をばかくるぞ。」と問はれけれぼ、郡司曰く、「暖なる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、苦みにてよく挟まるるなり。然らざれば、滑りて挟まれむなり。」という。僧正の曰く、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも、はさみ食ひてん。」とありければ、「いかでさる事あるべき。」と爭ひけり。僧正「勝ち申しなば、異事はあるべからず。戒壇を築きて給へ。」とありけれぼ、「易き事。」とて、煎大豆を投げやるに、一間計のきて居給ひて、一度も落さず挟まれけり。見る者あざまずといふ事なし。柚の実の只今搾り出したるを交ぜて、投げて遣りたるおぞ、挟みてすべらかし給ひけれど、おとしもたてず、又やがて挟みとどめ給ひける。郡司一家廣き者なれば、人數をおこして、不日に戒壇を築きてけりとぞ。
(渚の独り言)
何だか馬鹿馬鹿しいですけど、おもしろくて素敵。
そしてこれで第四巻がおしまいですよ!
慈恵僧正:
912-985。慈恵大師(じえだいし)、元三大師。第十八代天台座主の良源。延暦寺の堂塔の再建に尽くして、中興の祖と言われる。近江国浅井郡出身。
「角大師」「豆大師」「厄除け大師」など、今でもたいへんに信仰されています(この話は、「豆大師」の名前から出たのかもしれませんね)。
戒壇:
かいだん。戒律を授ける儀式を行うために設けた特定の壇――当初は、東大寺、大宰府の観世音寺、下野の薬師寺にだけ設置されていまして、ここで受戒の儀式を行わないと、正式な「僧侶」として認められませんでした。
その天下の「三戒壇」に比叡山延暦寺が加わった、まさにその時のお話ですね。
すむつがり:
酢憤り、すむずかり。
辞書には、粗くおろした大根と人参に、いり大豆・塩鮭の頭・酒かすなどをまぜて煮たもの。古くは、いった大豆に酢をかけたものをいった――と、酢の物みたいな感じで書いてありますが、漢字から見ると、大豆の皮がしわしわになるので「むずかる」だと思ったり。
「酢大豆」はヘルシー料理として検索にひっかかりますが、炒った大豆&酢は、あんまりおいしくないのかも。
See You Again by-nagisa
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